五十ページの本を出そうとして、指が止まった。こんなに薄くていいのか、と。厚みで価値を測る癖は、いつのまにか自分の中に住みついていた。その癖と、静かに向き合った夜の話です。
原稿を書き終えて、ページ数を数えたとき、ふと指が止まった。五十ページ少し。紙の本なら、指でつまめるくらいの薄さだ。
こんなに薄くていいのだろうか。頭の中で、誰かの声がした。もっと厚くしなさい、それでこそ本でしょう、と。誰の声かはわからない。たぶん、長いあいだ自分の中に住みついていた、ものさしの声だ。
厚みで、価値を測る癖
思えば、子どものころから本は「厚いほど立派」だった。分厚い辞書、重たい図鑑、背表紙の幅が広い全集。厚みは知識の量で、値段の根拠で、努力の証だと、どこかで信じ込んでいた。
だから薄い原稿を前にして、後ろめたさが湧いてくる。水増しでもして、もう少し格好をつけたほうがいいんじゃないか。そんな考えが顔を出す。
でも、水増しした文章を、自分は読みたいだろうか。答えははっきりしていた。読みたくない。むしろ、余計な前置きや、同じことの言い換えや、埋め草のような一章があると、途中で本を閉じてしまう。
読む側の自分は、薄さを責めたりしない。責めていたのは、書く側になった自分のほうだった。厚みという鎧を着ないと、外に出るのが怖かったのだと思う。
必要な分だけ、という贅沢
電子書籍には、そもそも厚みがない。手のひらの中では、五十ページも五百ページも、同じ一台の端末の中に収まっている。読む人が受け取るのは、紙の重さではなく、読み終えたあとに残るものだ。
必要なことだけが、必要な分だけ書いてある。それは手抜きではなく、たぶん一種の贅沢なのだと、最近になって思うようになった。削るのは、足すよりずっと骨が折れる。どの一文を残すか決めるたびに、書き手は小さく身を切っている。
もちろん、薄ければいいという話でもない。中身が伴わない薄さは、ただの薄さだ。大事なのはページ数ではなく、読み終えた人の時間が、少しでも報われるかどうか。そこだけを見ていればいい。
読み放題で読まれた場合は、読まれたページに応じて印税が決まる仕組みもある。厚みが直接お金になる場面がないわけではない。ただ、その計算の細かいところは変わりうるので、最新はKDP公式で確認をしてほしい。数字を追いかけるより、まずは水増しをやめること。私にとっては、そちらのほうが先だった。
ものさしを、置いてみる
結局、五十ページの本は、五十ページのまま世に出した。厚みの鎧を脱いだら、少しだけ身軽になった気がした。
売れ行きがどうなったかは、正直まだよくわからない。ただ、レビューに「短くて、ちょうどよかった」と書いてくれた人がいて、それを読んだとき、長く胸につかえていた何かが、静かにほどけた。
厚みで価値を測るものさしは、たぶんこれからも、ふとした拍子に顔を出すのだろう。そのたびに、そっと机の端に置く。今日はこれで、じゅうぶんだ。薄い本を閉じるときの、あの軽い手ざわりを思い出しながら。
※この随筆は個人の見解・体験にもとづく読み物です。お金・税・法律に関わる話は一般論であり、 実際のご判断は必ず公式情報や専門家でご確認ください。

