毎朝ニュースアプリを一時間眺めていた頃と、朝は開かなくなった今。情報を追う量が減ったら、書けることは減るのだろうか。しばらく試してみて、思ったことを書きます。
朝起きて、まずニュースアプリを開く。それがずいぶん長いあいだ、私の一日の始まりだった。
経済も、政治も、海外の話も、なんとなく一通り目を通す。目を通した、というより、指でめくっていた。三十分から一時間。読み終わったあとで、では今日は何を知ったのだったかと自分に聞いても、うまく答えられないことのほうが多かった。
追いかけているつもりだった
やめたきっかけは、たいしたものではない。ある朝、寝坊した。慌てて支度をして、ニュースを見る時間がなかった。それだけのことだ。
その日、困ったことは何も起きなかった。誰かとの会話が噛み合わなかったこともない。夕方になって、そういえば今朝ニュースを見ていなかったな、と思い出したくらいだった。
翌日も、なんとなく開かなかった。三日目には、開かないことのほうが自然になっていた。
そのうち気づいたのは、私が追いかけていたのは出来事そのものではなく、追いかけているという感覚のほうだったということだ。世の中の動きから取り残されていない、という安心。中身よりも、その安心のために時間を使っていた気がする。
もちろん、必要な情報はある。仕事に直結する話や、生活に関わる制度の変更。そういうものは、知らないと本当に困る。ただ、私が毎朝めくっていたものの大半は、そこには含まれていなかった。
書く材料は、どこから来るのか
ここで少し困ったことがあった。書く側の人間として、ネタが枯れるのではないかという心配だ。
時事を扱う本を書くわけではないにしても、世の中で何が起きているかを知らないまま文章を書くのは、閉じた部屋で絵を描くようなものではないか。そう思っていた。
数か月経ってみて、そうでもなかった、というのが正直な感想だ。
というのも、私がこれまで書いてきたものを振り返ると、朝のニュースから出てきた題材は、ほとんどなかった。値付けで迷った夜のことも、はじめてのレビューが怖かったことも、全部自分の手元で起きたことだ。誰かのニュースではなく、自分の一日から出てきている。
情報の量と、書けることの量は、思ったほど比例していなかった。むしろ、流れてくるものを浴び続けていた頃のほうが、頭の中がざわついて、腰を据えて考える時間が取れていなかったように思う。
いまは、週に一度か二度、まとめて見る。そのくらいの間隔だと、その週に何が大きかったのかが自然に浮かび上がってくる。速報で追っていた頃には見えなかった輪郭だ。一日遅れて知ることのデメリットは、少なくとも私の生活にはほとんどなかった。
遅れて届く、ということ
本というのは、そもそも遅い媒体だ。
書いて、直して、形にして、出す。原稿が読者の手に届くまでには時間がかかる。ニュースの速さとは、まるで別の時間が流れている。
その遅さを、以前は弱点のように思っていた。いまはそう思わない。速いものは速いところで消費されればいい。本にできるのは、速さでは拾えなかったものを、あとから拾い直すことだと思う。あの時こう感じた、なぜそう感じたのか。時間が経ってからでないと言葉にならないことは、確かにある。

