一冊目は勢いで出せた。けれど二冊目の前で、私はしばらく立ち尽くしていました。書けない理由を数えるうちに見えてきた、続けることのほんとうの正体について。
一冊目は、勢いで出せてしまった。
知らないというのは、ときに強い。相場も、体裁も、読まれる本の作法も、なにも知らないまま、私は最初の一冊をKDPの管理画面に放り込んだ。怖さがなかったわけではない。ただ、比べる対象がなかったから、怖がりようがなかったのだ。
問題は、そのあとだった。
一冊目が、二冊目の壁になる
二冊目を書こうとすると、机の上に見えない先輩が座っている。一冊目である。
「前のほうが、書き出しが良かったんじゃないか」「あの本を読んだ人が、これを読んで、がっかりしないか」。まだ一文字も書いていないのに、自分の過去作が採点官の顔をしてこちらを見ている。一冊目には競争相手がいなかったのに、二冊目には最強の相手がいる。自分自身だ。
しばらく、私はこの声に負けていた。書きかけのファイルばかりが増えて、どれも三行で止まっている。書けない理由を、私は環境のせいにしていた。時間がない、ネタが弱い、いまは時期が悪い。もっともらしい言い訳は、探せばいくらでも落ちている。
けれど、あるとき気づいた。私は書けないのではなく、失敗したくなかっただけなのだ、と。
上手くなったぶんだけ、臆病になる
一冊目のときの私は、下手だった。でも、その下手さを知らなかった。だから手が動いた。
二冊目のいまの私は、ほんの少しだけ、本の作り方を覚えてしまった。表紙のこと、目次のこと、読者がどこで離れるか。覚えたぶんだけ、粗が見えるようになった。見えるようになるというのは、成長であると同時に、呪いでもある。上手くなった目で、下手なうちの自分の手つきを裁いてしまう。
これは、書くことに限らないのかもしれない。副業でも、投資でも、二歩目のほうが重い。一歩目には期待しかないが、二歩目には結果という名の記憶がついてくる。だから多くの人が、最初の一回だけやって、そこで止まる。止まったまま「自分には向いていなかった」と静かに幕を引く。
私は、そうしたくなかった。
下手なまま、二冊目を出す
結局、私が選んだのは、ずいぶん間の抜けた方法だった。一冊目のことを、忘れることにしたのだ。
正確には、忘れられない。でも、机の上の先輩に「今日は席を外していてくれ」と頼むくらいのことはできる。完璧な二冊目ではなく、下手でもいいから終わっている二冊目を目指す。本は、出してからでも直せる。売り出したあとに表紙を差し替えることも、本文を整えることもできる(このあたりの手順や条件は変わることがあるので、最新はKDP公式で確認を)。だから、いまの自分の精一杯を、いったん外に置いてしまえばいい。
そう決めてから、三行で止まっていたファイルが、少しずつ伸び始めた。名文ではない。でも、進んでいる。それだけで、机の空気が変わった。
続けるというのは、上手くなり続けることではないのだと思う。むしろ、上手くなった目で自分を裁く声と、うまく折り合いをつけ続けることだ。二冊目が書けないのは、あなたが下手だからではない。少しだけ、目が肥えてしまったからだ。
今日もまた、下手な一行を書く。その一行が、いつか三冊目の私に呆れられることを、静かに願いながら。

