読み終えた本の感想を、レビューにも投稿せず、ノートの隅に書きためている。誰にも届かないその一行を、なぜ書いているのか。書く側になってから、少しだけ答えが見えてきた気がする。
読み終わった本の感想を、レビューに投稿したことがほとんどない。
そのかわり、机の引き出しに入っている小さなノートに、一行か二行だけ書いている。「終盤、急に静かになるのがよかった」とか、「第三章だけ読み返した」とか。日付も、タイトルも、書いたり書かなかったりする。誰かに見せるつもりのないメモなので、主語も述語も足りていない。半年後の自分が読んでも、何の本のことか分からないものが混ざっている。
それでも、なぜか続いている。もう何年になるだろう。
届かない感想の、行き先
書く側になってから、この習慣が少し気まずくなった時期があった。
自分が本を出すようになると、レビューのありがたさが身にしみる。星の数がどうというより、誰かが最後まで読んで、わざわざ言葉にしてくれたという事実そのものに、体温がある。だったら自分も、読んだ本にはちゃんと言葉を返すべきではないか。ノートの隅に書いて満足しているのは、受け取るばかりで返さない態度なのではないか。
そう思って、何度かレビューを書こうとした。書けなかった。
書けない理由は、たぶん技術的なものではない。ノートに書く一行と、公開する文章とでは、書いている自分がまるで別人になってしまうのだ。ノートのほうは、読み終えた直後のぼんやりした感触をそのまま置いている。公開するほうは、どうしても「この本を読むかどうか迷っている誰か」に向けて書いてしまう。あらすじの要約が入る。どんな人に向いているかを付け足す。書き上がったものは、悪くはないのだけれど、自分がその本から受け取ったものとは、微妙にずれた形をしている。
ずれた形のほうを公開して、本物のほうをノートに残す。それを何度か繰り返して、レビューを書くのをやめてしまった。
感想は、たぶん二種類ある
最近になって、考え方が少し変わった。
感想には二種類あるのだと思う。ひとつは、他人に渡すための感想。もうひとつは、自分の中に沈めておくための感想。前者は誰かの判断材料になり、後者は自分の読書の地層になる。役割が違うだけで、どちらかが偽物というわけではない。
そう考えると、ノートの一行にも意味が出てくる。あれは、読んだという事実を自分の側に固定しておくための杭のようなものだ。内容はほとんど忘れる。それでも、めくり返したときに「ああ、この時期はこういう本ばかり読んでいたのか」という手触りだけは残る。その手触りが、たまに自分の書くものに影を落としている気がする。
自分の本にレビューが付いたときのことを思い出す。数はそう多くない。でも、その何倍もの人が、たぶん何も書かずに読み終えている。その人たちの中にも、ノートに一行書いた人や、誰かに口頭で話しただけの人や、何も残さずただ本を閉じた人がいる。届いていないだけで、感想は存在している。
そう思うようになってから、レビューが付かない時期の落ち着かなさが、少しだけ薄くなった。数字として見えるのは、感想全体のごく一部でしかない。見えている部分だけで自分の本の届き方を判断するのは、たぶん正確ではない。
それでも、たまには渡す
とはいえ、これは書かない言い訳を作っているだけかもしれない、とも思う。
だから最近は、月に一冊くらいのつもりで、ノートに書いた一行をそのままレビューにしてみることがある。要約もしない。誰に向いているかも書かない。「終盤、急に静かになるのがよかった」だけを、そのまま置いてくる。短すぎて役に立たないかもしれない。それでも、自分の中では、いちばん嘘のない形になっている。

