書店でもKindleでも、まず目次から開くようになった。表紙でも帯でもなく、目次。書く側になってから、あの数十行に本の設計図が透けて見えるようになった、という話です。
書店に行くと、まず目次を開く。いつからかそうなった。
昔は違った。平積みの表紙を見て、帯の惹句を読んで、なんとなく面白そうだと思ったら最初の数ページをめくる。冒頭がうまい本は、たいてい買っていた。今から思えば、あれは書き手の一番いいところだけを見て判断していたことになる。冒頭は誰でも力を入れる。力を入れられる場所だから。
目次を見るようになったのは、自分が本を作るようになってからだ。
数十行に、その人の考え方が出る
目次というのは不思議なもので、内容の要約ではない。要約なら、あらすじや紹介文のほうが向いている。目次が見せているのは、その人がこのテーマをどう切り分けたか、という頭の中身のほうだ。
たとえば同じテーマの本が二冊あるとして、一冊は時系列で章を並べ、もう一冊は悩みの種類で章を並べていたとする。書いてある知識はたぶん八割がた重なる。それでも読後感はまるで違う本になる。切り分け方が違うということは、その人が世界のどこに継ぎ目を見ているかが違うということだから。
自分で目次を組んでみると、これがどれだけ苦しい作業か分かる。順番を入れ替えるだけで、話が通ったり通らなくなったりする。第三章に置くと当たり前に見える話が、第一章に置くと唐突になる。逆に、第一章で書いておかないと第五章がまるごと空回りすることもある。あの数十行は、書き手が何十回も並べ替えた結果の、最後に残った一通りなのだ。
だから目次を見ると、ある程度は分かってしまう。章題が全部「〜とは」で始まっている本は、たぶん説明で終わっている。逆に章の粒度がばらばらで、やたら細かい章と妙に大きい章が混ざっている本は、書きながら迷った跡がそのまま出ている。これは責めているのではなくて、私の本もだいたいそうなっている。
選ばれる側から見ると、少し落ち着かない
そういう目で本を選ぶようになると、当然、自分の本も同じように見られていると思うようになる。
KDPの商品ページには、目次がそのまま出るわけではない。サンプル(試し読み)の範囲に入っていれば読まれるし、入っていなければ読まれない。ここは仕様の話なので、最新はKDP公式で確認をしてほしい。ただ、少なくとも私が読者だったときは、サンプルを開いたらまず目次まで飛ばしていた。同じことをする人は、たぶんそれなりにいる。
そう思ってから、目次の書き方が少し変わった。章題に凝るのをやめた。以前は気の利いた言い回しを入れたくて、読んだだけでは中身の見当がつかない章題をつけていた。本文を読んだあとなら「うまいこと言うな」となるやつだ。でもあれは、まだ読んでいない人には何の情報にもならない。順番が逆だった。
かといって、全部を「第一章 準備」みたいに素っ気なくすると、今度は本全体が味気なくなる。このあたりのさじ加減は、いまだに分からない。一冊ごとにやり方を変えて、そのたびに少し後悔している。
買わなかった本のことを、たまに思い出す
目次で選ぶようになって、買わなかった本も増えた。
面白そうな表紙で、テーマも気になって、それでも目次を見て棚に戻した本がいくつもある。あとから考えると、あれは本当に中身がなかったのだろうか。目次の組み方が私の頭に合わなかっただけで、読めば良かったのかもしれない。切り分け方が違うから面白い、という読み方だってあるのに、私は自分と同じ切り分け方をする書き手を探していただけかもしれない。
そういう本が、たぶん何冊かある。名前も覚えていない。

