パソコンの中に、書きかけのまま止まった原稿フォルダが七つある。捨てるでもなく、進めるでもなく。放置した原稿と、どう付き合っていくかという話です。
パソコンのドキュメントフォルダを開くと、「執筆中」という名前の中に、さらに七つのフォルダが並んでいる。
一番古いものは、二年前の日付が入っている。中身を開くと、目次だけが立派に組んであって、第一章の途中で文章が切れている。「つまり、ここで大事なのは」——そこで終わっている。何が大事だったのか、書いた本人がもう思い出せない。
こういうフォルダが、七つ。出した本の数より多い。
捨てられない理由を、考えてみた
なぜ消さないのか、自分でもよく分からなかったので、少し考えてみた。
ひとつは、単純にもったいないのだと思う。目次を組むだけでも、それなりに時間はかかっている。資料を読んだ跡もある。ゼロではないものを、ゼロに戻す作業には、妙な抵抗がある。
もうひとつは、いつか戻ってくるかもしれない、という淡い期待だ。今は書けないけれど、機が熟せば書ける気がする。実際、七つのうちひとつは、去年ようやく動き出して本になった。着手から一年半かかっている。だから全部が無駄とは言い切れない。
ただ、正直に言えば、残りの六つが動き出す見込みは薄い。熱が冷めたテーマ、調べるうちに自分には荷が重いと分かったテーマ、書いているうちに他人の本で十分だと気づいたテーマ。理由はそれぞれある。
それでも消さないのは、たぶん、消すという行為が「あきらめ」の宣言に見えるからだ。フォルダが残っているうちは、まだ執筆中ということにできる。都合のいい話だが、そういうものだと思う。
在庫として、置いておく
最近は、考え方を少し変えることにした。
書きかけのフォルダを「止まった仕事」ではなく、「材料の置き場」として見る。完成させる義務のあるものではなく、いつか別の本を書くときに部品として使えるかもしれない断片の集まり。そう思うと、少し気が楽になる。
実際、あるフォルダに残していた調べものが、まったく別のテーマの本で二ページ分ほど役に立ったことがある。本一冊にはならなかったけれど、消えたわけでもなかった。
そう考えると、七つのフォルダは失敗の記録ではなく、書き手としての在庫みたいなものだ。使えるかどうかは分からない。それでも棚にあるだけで、次に何か書くとき、まったくの手ぶらで始めなくて済む。
もっとも、在庫を抱えすぎると倉庫が窮屈になるのも事実で、そこは適度に整理したほうがいいのだろう。今年は、二つほど中身を見返して、使えそうな部分だけ抜き出して、あとは静かに削除した。削除ボタンを押すとき、思ったより何も感じなかった。
動き出すときは、たいてい急に
止まった原稿が再び動き出すきっかけは、自分で計画して作れるものではないらしい。
去年動き出したフォルダも、きっかけは人からの何気ない一言だった。「そういう話、読みたい人いると思いますよ」と言われて、翌週には書き始めていた。それまで一年半、一文字も進まなかったのに。
だから、書けない原稿を無理に机に引きずり出すことは、あまりしなくなった。書けるものから書く。書けないものは棚に戻す。そのうち動き出すかもしれないし、動き出さないかもしれない。どちらでも構わない、という距離感でいるほうが、結果的に長く続いている気がする。

