出版してからというもの、朝いちばんに見るのはレポート画面でした。ある日ふと、今日は見ないでおこうと決めてみたら、思っていたより静かな一日がやってきたのです。
出版してから、朝の順番が変わりました。以前はコーヒーを淹れてから顔を洗っていたのに、いまは布団の中で先にスマホを開いて、レポート画面を出しています。昨日と比べてどうか。棒グラフは伸びているか。ゼロが並んでいないか。
数字そのものが好きなわけではないと思います。ただ、あの画面には自分の本が世界とつながっている証拠があるような気がして、確認せずにはいられなかった。
そんな日が半年ほど続いたある朝、なんとなく、今日は見ないでおこうと思いました。理由らしい理由はありません。強いて言えば、前の晩に読んだ本のなかに「見張っていると、育たないものがある」という一節があって、それが妙に残っていたからでした。
見ないと決めた日に、起きたこと
まず、朝が長く感じました。
いつもならレポートを開いて、数字を眺めて、良ければ少し浮かれ、悪ければ少ししょげる。その一連にかかる時間はせいぜい三分ですが、そのあとの一時間くらいは、なんとなくその余韻のなかで過ごしていたのだと気づきました。浮かれた日は書く手が軽くなり、しょげた日は原稿を開いても文字が滑っていく。三分の確認が、一日の天気を決めていた。
見なかった日は、天気が自分で決められました。
窓の外は曇っていましたが、それは私の一日とは関係のない曇りでした。コーヒーを淹れて、机に向かって、昨日の続きから書きはじめる。「今日は何冊売れているだろう」という問いが浮かばないぶん、頭のなかが静かでした。
夕方に気づいたのは、その日いちばん長く考えていたのが「この段落、いらないのでは」という、ごく地味な問いだったということです。数字を見ていた頃、こういう問いはたいてい後回しになっていました。売れ行きのほうが大きな問題に思えていたからです。
数字は嘘をつかないが、全部は語らない
誤解のないように書いておくと、数字を見るのが悪いとは思っていません。
売れ行きも、読まれたページ数も、レビューの数も、全部ほんとうのことです。何冊届いたかを知らずに書き続けるのは、目隠しで歩くようなものかもしれない。値付けを変えたときの反応や、無料キャンペーンの効き方は、数字を見ないとわかりません。ロイヤリティの率や集計のタイミングといった仕組みも、時期によって変わりうるものなので、最新はKDP公式で確認するのがいいと思います。
ただ、数字が語らないこともあります。
たとえば、ある一冊が誰かの通勤電車で開かれて、三ページ読まれて閉じられ、次の日にまた開かれたこと。読み終えたあとで、感想を書こうとしてやめたこと。そういうことは、どのグラフにも出てきません。出てこないけれど、たぶん、書く理由に近いところにあります。
数字は、起きたことの影のようなものだと思うようになりました。影があるということは、そこに何かが立っている。でも影の形だけを一日中眺めていても、立っているものが何なのかは、そんなにわからない。
週に一度だけ、と決めてみる
いまは、日曜の夜にだけ見ることにしています。
一週間ぶんをまとめて眺めると、日々の上下がならされて、線がなだらかになります。一日単位ではジェットコースターに見えていたものが、週単位だと「まあ、こんなものか」という緩やかな傾きになる。同じ数字なのに、見る間隔を変えるだけで、受け取る感情がずいぶん違いました。

