紙の本と違って、電子書籍は出したあとでも直せる。最初はありがたいだけだったその自由が、いつしか少し重たくなってきた。「完成」の来ない本と、どう付き合うかという小さな話。
直せる、ということ
紙の本を自費出版した知り合いがいる。刷り上がった一冊を手に取って、彼はまず奥付を確かめ、それから小さくため息をついた。「ここ、一文字だけ間違えた」。もう直せない。次の増刷があるとしても、それまでは、その誤字が世界に残り続ける。
電子書籍を出すようになって、私がいちばん驚いたのは、この「直せる」だった。公開したあとでも、本文をまるごと差し替えられる。誤字を見つければ直せるし、古くなった数字や制度の説明を、静かに書き換えることもできる。紙なら諦めるしかなかったことが、手元のパソコンで済んでしまう。
はじめのころは、ありがたいとしか思わなかった。誤字が怖くなくなる。出してからでも取り返せる。そう思うと、公開ボタンを押す指が、ずいぶん軽くなった。
でも、完成が来ない
ところが、しばらく続けているうちに、妙な感覚が芽生えてきた。いつまでも直せるということは、いつまでも「完成」しない、ということでもある。
読み返すたびに、直したいところが見つかる。あの言い回しは古い、この例はもっといいものがある、ここの説明は今なら違う書き方をする。直せてしまうから、つい開いてしまう。そして開けば、たいてい何か直す。気づけば、一年前に出した本を、また少しいじっている。
紙の本の彼が抱えた「もう直せない」は、たしかに不便だ。けれど同時に、それは「ここで終わり」という区切りでもあったのだと思う。手を離した瞬間に、その本は彼のものであると同時に、読者のものになった。私はその区切りを、自分の意思で作らなければならない。
制度や数字にかかわる本なら、更新できるのはやはり利点だ。ロイヤリティの割合や登録の条件は変わることがあるから、こういう話は最新をKDP公式で確認してほしい、と本文にも添えるようにしている。直せる前提だからこそ、書ける正直さもある。
いつか、手を離す
このごろは、あえて「もう開かない」と決めた本を、少しずつ増やしている。誤字の報告があれば直すけれど、それ以外はもう触らない。完璧だからではない。むしろ、直したいところは今も残っている。それでも、どこかで手を離さないと、次の一冊に向かえないと気づいたからだ。
本は、あとから直せる。便利な自由だ。けれどその自由をどう使うかは、結局、書いた人の覚悟に返ってくる。直せることに甘えるのか、直せてもあえて閉じるのか。
夜、公開済みの一覧を眺めながら、そっとタブを閉じる。まだ直したい箇所は、たぶん明日も同じ場所で待っている。それでいい、と今夜は思うことにした。
※この随筆は個人の見解・体験にもとづく読み物です。お金・税・法律に関わる話は一般論であり、 実際のご判断は必ず公式情報や専門家でご確認ください。

